ジョン・デイヴィスとは?北西航路を追った16世紀の英国航海者
公開 2026年8月12日
大航海時代を生きた航海者
16世紀後半のヨーロッパでは、香辛料や絹などアジアの富をめぐって各国がこぞって新しい航路の開拓に乗り出していました。すでにスペインやポルトガルは南回りの航路を確立していましたが、後発のイギリスはより北を通る短い道、すなわち北極海を経由してアジアへ到達する「北西航路」に活路を見いだそうとしていました。ジョン・デイヴィスは、この北西航路の探索に生涯をかけたイギリス人航海者の一人です。
探検を支えた人々
デイヴィスの探検は、彼一人の情熱だけで実現したわけではありません。当時のロンドンには、新しい交易路の開拓に投資しようとする商人たちの組合が存在し、資金や船を提供してこうした遠征を後押ししていました。デイヴィスもまた、こうした支援者たちの期待を背負って、危険を承知のうえで北の海へと乗り出していったのです。当時の航海は、羅針盤や海図の精度も現代とは比べものにならないほど不十分であり、天候や海流の情報も乏しいなかで進めるほかありませんでした。
三度にわたる北極圏への航海
デイヴィスは1585年から1587年にかけて、都合三回にわたって北大西洋へ探検隊を送り出しました。最初の航海ではグリーンランド南西岸に到達し、現地のイヌイットとの交流も記録に残されています。二度目、三度目の航海ではさらに北へと進み、グリーンランドとバフィン島の間に広がる海域を精力的に調べ上げました。当時のヨーロッパ人にとって北極圏はほとんど未知の領域であり、氷に閉ざされた海を小型の帆船で進む航海は命がけの挑戦でした。
デイヴィス海峡という名の由来
結局、デイヴィスは北西航路そのものを発見することはできませんでした。しかし彼が繰り返し探索した海域は、後年「デイヴィス海峡」と名付けられ、現在も世界地図にその名をとどめています。地図の上に自分の名前が残るというのは、探検家にとって最大級の栄誉のひとつといえるでしょう。彼が残した航海日誌や海図は、後続の探検家たちが北極圏を目指す際の貴重な手がかりとなりました。
地図製作への貢献
デイヴィスが持ち帰った観測記録は、当時のイギリスにおける北方の地図製作に大きく反映されました。彼が描いた海岸線のスケッチや緯度の記録は、後の探検家たちが同じ海域を再訪する際の重要な参考資料となり、17世紀以降も北西航路探索を志す航海者たちに読み継がれていきます。
航海術への貢献ーデイヴィスの四分儀
デイヴィスは単なる冒険家ではなく、優れた航海術の専門家でもありました。太陽の高度を測って自分の船の緯度を知るための観測器具「デイヴィスの四分儀」(バックスタッフとも呼ばれます)を考案し、著書にもその使い方をまとめています。この器具は、観測者が太陽を直接見つめずに影を利用して測定できる点が画期的で、以後長きにわたり航海士たちに愛用されました。
晩年と最期
晩年のデイヴィスは、東インド会社などが計画した東方への航海にも水先案内人として参加しました。しかし1605年、東南アジア方面の航海中に海賊との戦闘に巻き込まれ、命を落としたと伝えられています。北西航路の発見という当初の目標には届かなかったものの、彼が残した地理的知見と航海技術は、その後の北極探検史に大きな足跡を残しました。