六角義賢とは?
ろっかくよしかた
六角義賢は、近江国を治めた六角氏の当主で、「分国法」の整備など先進的な内政改革を進めた戦国大名です。
六角義賢(1521〜1598)は、近江国(現在の滋賀県南部)を本拠とした守護大名・六角氏の当主です。「承禎(じょうてい)」とも呼ばれます。父・定頼から家督を継ぎ、六角氏の全盛期を支えた人物です。
義賢の最大の業績のひとつが、天文18年(1549年)に制定した「六角氏式目」(近江国掟書)です。これは家臣団の権利を一定程度認めながら権力の乱用を抑制する内容を持つ分国法で、戦国時代の地方統治の先進的事例として評価されています。家臣との「起請文」による誓約制度も特徴的でした。
しかし義賢の晩年は苦難の連続でした。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角氏はその侵攻を受けて本拠の観音寺城を棄て敗走しました。以後も信長への抵抗を続けましたが、次第に勢力を失っていきました。
六角氏滅亡後も義賢は生き延び、長命を保ちました。観音寺城は南近江の山城として現在も遺構が残り、戦国時代の城郭建築の事例として知られています。六角義賢は「戦国期の地方統治改革者」として、また織田信長の上洛を阻んだ大名として歴史の教科書にも登場します。
使い方・例文
戦国時代の分国法を解説する際に、六角氏式目の制定者として六角義賢の名が挙げられます。
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